Myanmar in September 2000


2000年9月21日,インドのニューデリーからバンコク経由で早朝の,ミャンマーの首都ヤンゴンのミンガラドン空港へ降り立つ。日本がODAを凍結してから久しく,私としても実に23年ぶりのミャンマー入りである。嘗ての若手エンジニアー,カウンターパーツであったウウインチョーが,電力公社MEPEのチーフエンジニアーに就任して,彼の大きな執務室で,20年ぶりの再開を抱擁の挨拶で,互いに喜び合った。彼は私より10歳若いが,孫が二人出来た,と行って喜んでいた。私のために準備していてくれていたのか,シッタン川の中流左岸のパウンラン水力プロジェクトの工事中の写真を見せながら,アダチ,遂に着工したよ,と誇らしげに説明してくれた。ミャンマーの新聞でも,中国輸出入銀行が120百万ドルの長期低利の融資を決定したことを報じている。何を隠そう,私の国際協力の出発点がこのパウンラン水力なのである。当時のビルマは,ネウイン政権下で厳しい鎖国政策のもとでの仕事であって,全く,毎日涙の出るような寂しい思いで2年間のビルマ生活を送ったものである。ホテルもレストランもなく,蠅が飛び交う中華料理の汚いレストランで,やっと焼飯なんかを食べていたもので,パウンラン現地の掘っ建て小屋に数ヶ月放り込まれて,ボーリングの監督に当たった。現場から出るにも中央の許可が必要で,スタッフの一人が病気になってラングーンに送り返そうとしたら,許可が出るまで1週間かかるという,「我々は囚人ではない」と怒りの電報を打ったら,それから数日後,軍の将校が二人,現場見学に訪れた。一生懸命,ダムの説明をしたが,彼らは何も言わない,おかしいなあ,と思って,カウンターパーツに,一体あいつ等は何だ,と聞いたら,「情報部の将校で,お前を取り調べに来たのだよ」,と教えてくれた。

数年前に,ベトナムのミッションでハノイに滞在中,ミッションの一人が特別な任務で数日間ラングーン入りして帰ってきて,「ヤンゴンは凄い!,空港から市内まで4車線のロードがバンッとついている」と言うものだから,「そんな分けないだろう,あなたはどこか間違って,ニューデリーでも降りたのと違うのか」と言ってからかったが,その後の人々の話を聞くと,ホテルが沢山あるだとか,日本料理屋まであるとか,とんでもないことを皆言うものだから,本当に当時を知るものにとっては,信じられない話ばかりであった。どうしてそれほどの変貌を遂げたのか,確かめたいと思いながら,あれから23年の月日が流れてしまった。しかし,その変貌は聞きしにまさるものであったが,そこに何か不足したものがあるような気がするのは,私だけではなかろう。今度の旅行中に,クリントン大統領がスーチー女史の健闘を称える演説を行ったが,この問題はどこまで尾を引くのか。

今度の旅の旅程は,自分としても非常に興味のあるもので,マンダレーから,北部シャン州のメーミョウ,ラシオまで車で走り,それから更に東のサルウイーン川に達して,中国の国境に接するコーカン特別自治区の奥深く入り込んだ。それはラオカイであり,コンジャンであり,チャーシーシュウである。特にチャーシーシュウでは,悪路のために車が走らず,丸2日間,山の中を歩き回った。体力的にも,自分の限界を探る旅であった。膨大な写真記録の公表になったが,どうか時間をかけて見ていただきたい。アジアの大河,イラワジとサルウイーンに直接接触できたのは幸運であった。ラオカイから,中国のネットを通じてデーター通信が出来たことも驚きであった。また,この地域に旧日本軍の足跡を発見,少し調べてみるか。


ミャンマー・2000年9月・写真集

パノラマ写真

1.ヤンゴン到着

2.マンダレー到着

3. マンダレーよりラシオに向かう

4. ラシオよりコーカン特別区へ,ラオカイまで

5.ラオカイより西の僻地コンジャンまで

6.チャーシーシュ村の苦しい踏査