Mongol
1999年7月


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7月21日夕,関西空港よりモンゴル航空でウランバートルに直行,機内放送で気温36度と聞いて驚く。降りたって,迎えに来ていただいたJICA事務所の江川さんに聞くと,本日が今年の最高温度とか。翌日には再度上がって,感じでは40度に近い。これで冬はマイナス40度になるというのだから,想像できない。8月の中旬には温度が下がり始めるという。ホテルは,ウランバートル・ホテルだが,大体何でも揃っているが,いくら部屋の中を捜してもクーラーのスイッチがない,聞いてみると冷房なしとか。西日の当たる部屋で,うだるように暑かった。部屋の中では,下着姿で過ごすしかない,夜が大変だなあと思っていたが,少し窓を開けると,夜は何とか過ごせる暑さである。寒いよりは増しだと思って我慢しているが,冬は大変だろうな。部屋にはスティームのパイプが入っていて,暖房の集中管理の方式になっているようだ。夜,夕食のために外に出ると,気持ちよいぐらい涼しい。日本料理屋が3軒ぐらいあって,日本食には苦労しないだろう。

写真速報をどうぞ,


7月21日夕方ウランバートル空港到着

7月22日 ウランバートル市内 その一

7月24日 土曜日を利用して市外ザイサンの丘へ

7月26日より27日にかけ,南西340kmの村へ

見渡す限りの草原,年間の降水量は300mm程度で大きな木は育たず,雨期の8月になるとこの草原の緑がますます濃さを増すという。年間温度と降水量のバランスがこのような草原を生んだのだろう。近くによってよく見ると,草はそんなに密集してはいないで,どちらかといえば砂漠に近い。少し南に下がってゴビの砂漠となるので,全く微妙なバランスで草原となっているのだ。地球気候の変動で,このような微妙なバランスが,今後も保たれるのであろうか。野菜は殆ど育たない上,人間が食べられるような植物はない。だから羊にこの堅い草を食べさせて肉を作らせ,人間はその羊の肉を食べることになる。どこに行っても羊肉,臭くてしばらく旅行を続けると体も臭くなりそうである。モロッコあたりの中東でもこれに近い気象だが,温度が高いだけ麦が出来て,人間はその麦を食べることが出来る。モンゴルの人は顔は日本人と同じでも足が長いが,これは肉食であるが故に腸が短く上半身が短くなり,相対的に足が長くなると言う。


モンゴルは旧ソ連の影響を大きく受けてきたわけで,80年代にはソ連から燃料も含めて十分な物資の供給を受けていたという。当時のソ連のモンゴルの組織化はすさまじく,アイマグという県庁所在地,郡に相当するソム,その下に移動性の人々の集まりである村に相当するバクがあり,県庁所在地や,特に郡役所所在地のソムセンターは,バクの人々が集まってきて病院や学校が利用できるようになっており,所謂コルホーズを作らせようとした形跡があり,全国300近いソムセンターに,全てディーゼル発電機を供与している。市場化されようとしている今日に於いても,この旧ソ連の作った村の構造をそのまま使用して,国民の統合を図ろうとしているわけである。移動性の国民を統合するために,格好の組織だったのだろう。

日本は,1930年代に満州を占領し,更に当時の蒙古を,ソ連に対する最前線と位置付けて,「満蒙は帝国の生命線」と言う標語を聞いたことを思い出す。ノモンハン事件を起こして関東軍が重装備のソ連軍に敗れ去ったわけであるが,そのときの日本軍の行為が,今もモンゴル人の心に残っている。時々日本人が,「ジンギスカンは義経だ」と言うと一笑に付せられると言う。大東亜戦争の終戦時,多くの日本人がシベリアに送られたが,その一部はモンゴルにも送られ,多くの死者を出した。遺骨収集団が今もここを訪れる理由である。ジンギスカンの墓を捜す記事が出たときがあった。日本人は,なんとか見つけようと努力したが,協力したモンゴル人は余り積極的でなかったという。「いいではないか,分からないところにジンギスカンの神秘性があるのだ」と言う姿勢だったという。モンゴル人の心の中を覗いたような気がする。今は,旭鷲山等が来日して,日本でもモンゴル熱が上がってきているように,モンゴルでも日本人の観光客の増大で,一種の日本ブームが起きているようだ。モンゴル人は耳がよいので,日本語のうまい人も見かける。発音が非常に上手で,顔も同じだから,あれ日本人 かなと思うことがある。「三四郎」と言う日本レストランで,たまたま夏場所を終えた旭鷲山がキャデラックで乗り付けてきて,「カツ丼!」と注文していた。眼があったら「俺知ってるか?」と言うような顔をしていた。



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