パルミラ(2) メインストリートと劇場
パルミラ(3) 丘の上から
1997年11月20日,再びパルミラを訪ねる。前回はデジカメを持っていなかったので報告できていないが,今回は多くの写真が撮れた。パルミラは世界遺産にも指定されている世界でも屈指の都市遺跡である。砂漠の中のオアシスで,古来シルクロードのバイパスにおける有数の宿場町として栄えてきた。ここからダマスカスやアレッポに向けて旅をしていったわけである。また,アラブ湾から地中海への最短コースのオアシスであった。
その起源は紀元前19世紀に遡ると言われているが,実際に歴史に顔を出すのは,ローマ帝国が接触を開始した紀元前1世紀である。AD129年にここを訪れたローマのハドリアン皇帝が,ここは完全な自由都市だ,と認める発言をしている。このころから反映の頂点を迎え,その王朝の支配地域は,北はアレッポ付近,西はエジプトに達していたと言われている。史上に残る悲話の主人公である女王ゼノビアは,多くの外国語を駆使した頭脳明晰で美人,野望に長けた女王であったと言われている。AD267年にアラビア半島を外国勢力から解放するとしたパルミラのユンガー王とその息子達が暗殺される,この暗殺には多くの謎があるが,もっとも信じられているのは,王の第2夫人であったゼノビアがその暗殺の張本人とされている。
女王となったゼノビアは,AD270年に軍をエジプトに進めて時のエジプト女王クレオパトラと一戦を交えている。ローマ帝国はこれに対応すべく軍をパルミラに送る,ゼノビアは一旦はローマに忠誠を誓ったが,ローマ軍が引き上げる途中でそのゼノビアの反乱を聞き,急遽軍を返して,パルミラを徹底的に破壊する。女王ゼノビアは捕らえられてローマに連行され,金の鎖に繋がれてローマ市内を引き回され,数年後にローマでその生を終わる。このパルミラの破壊はAD274年と言われているので,ユンガー王暗殺から僅か7年の儚い政権であった。
これ以降は歴史の表舞台からパルミラは姿を消し,アレッポやダマスカスが中継地点の都市として栄えることとなる。パリ遺跡の発掘は,19世紀から始まっているが,途中発掘中のドイツの考古学者のグループがトンネルの崩壊で死亡するなど事故が続き,十分にその全容が明らかにされていなくて,女王ゼノビアの宮殿がまだ見つからないと言う。
ダマスカスから砂漠の中を北東へ
240km地点で忽然とオアシス出現
パルミラのこの現れ方もドラマティックだ
遺跡の西南の端にある神殿跡
周囲をこの柱によって囲まれていた
神殿本体の外観
中ではお祭りが行われ
動物の生け贄が殺された
人間を生け贄にしなかったのが現住民の誇り
神殿内の天井に掘られた精巧な彫刻
その後モスレムなどの蝋燭で黒くなった
神殿の桁の一部,ブドウのような彫刻
右の人は元高校教師という案内人
ゼノビアの子孫をもって任じている