私の主張04

ー ベトナムを解くキーワードは,南北の融和 ー

(1999/11/18)


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今朝(1999年11月18日)の早朝,ベトナムニュースのホームページを開けて,そこにヤリ水力がいよいよ試運転に入る,と言う記事を見て,久しぶりに旧友に出会ったような,懐かしい気分と同時に,そうか,ベトナムの友人達は遂に成し遂げたのか,と言う深い感慨を覚えた。この機会に,私とベトナムの関わりを振り返って,タイと張り合って今後東南アジアの重要な経済大国となるのか,はたまた,政治的な試練を今後も抱き続けるのか,私は,常に,今後のベトナム発展の鍵を握るのは,「南北融和」だと思っている。


1.米国に先立って日本制裁解除

1991年11月某日,メコン委員事務局の中は,私を取り巻いてベトナムの若いエンジニアー達が大騒ぎをしていた。私の机の上のタバコを取り上げて吸いまくって,「ノーモアエンバーゴ」の合唱である。米国がベトナムに対する制裁を解除すると言いながら,大統領選挙が近づいてモタモタしている,9月には米国のミッションがメコン委員会を訪れたが,これは商務省のミッションで,制裁解除を見越した,ビジネス目的のものであった。それと相前後して,当時の中山外務大臣が,戦後初めてベトナムを訪問し,足慣らしを行っているが,この11月某日に日本は米国の決定に先駆けて,独自の判断で解除に踏み切ったわけである。夕方になっても騒ぎは収まらず,ベトナム人の一団が私の車に乗り込んできて,車に積んであった非常食を奪い食べながら,またもや,「ノーモアエンバーゴ」の合唱である。当日の私のメモには,次のような記述が残っている。

「米国の大統領選挙の終了を待たずに援助再開に踏み切った政府の英断は、それだけでベトナムに大きな刺激を与えている。しかし問題は、ハノイの援助受け入れに対する考え方である。過去の本報告でも意見を述べてきたが、他の被援助国とは若干ニュアンスが異なり、東南アジアの他の諸国よりも中国の姿勢に近いものがある。ベトナム人は企画力もあり、計画の実施への取り組みも早い。ここまで自力でやってきたけれど資金がなくなったというものが相当出てくるはずである。計画の中には国際的なプロジェクトの開発理論からみて無謀なものも含まれており、中には北と南の政治的な関連から実施されつつあるものもある。日本の調査団が入った時に、はいそうですかやりましょうとは言い難いものがある。更に、中国で一時問題となった、借款によるダム計画を自力でやるので金を貸してくれという可能性が高い。中国において世銀は、借款の条件として国際入札を主張し紛糾したことがある。この点をどう処理するか考えておく必要がある。」

制裁中のベトナムにも,何度か訪れる機会があった。それは,日本政府がメコン委員会に対して域内の小水力開発に資金を拠出したからで,このときの予算要求でも,ベトナム単独のプロジェクトには駄目,域内全体に関わるものに限る,との前提で,対ラオスに対するものとのパッケージで準備されたものであった。制裁解除前に,91年の1月と7月に,中央高原を含めて,2度,ハノイを訪れている。このときは,米国を中心とした西側の制裁が解除されるとの情報が飛び交っている頃で,小なりとは言え,またメコン委員会を通じてとはいえ,日本人が日本のお金を持ってきた,と言うので大歓迎されている。初めてみるベトナムは,中央高原の豊かさや,ニャッチャンの海岸通の景色に魅了されたものである。


2.南北連携送電線構想と初のJICAプロ形調査団

91年4月15日の日経新聞に報道された,ベトナムのハノイとホチミンを結ぶ50万ボルト南北連携超高圧送電網構想は刺激的であった。このときの私のメモには,「ベトナムの超高圧送電線開発に思う」と題して,次のような思いを書き残している。

「ベトナムは、ハノイとホーチミンを結ぶ1400kmの50万ボルト送電線の開発に着手した。土木工事と鉄塔に関しては自力で完成し、ケーブル及び変圧器関連は輸入する(約3億ドルの外貨が必要)ものとして既にテンダーを終了している。ベトナム政府の政治的な判断なので直接多くを議論できないが、ベトナム人の技術的な力には敬意を表するものの、投資効果を含めた経済運用については疑問を呈せざるを得ない。僅かに300万KW程度の電源設備に対してこの送電線を建設することは、それがどのように電気料金に跳ね返り、今後の電力経済を阻害するか計り難いところがある。」 当時としては,率直な思いであった。更にこれに続けて,八つ当たりにホアビン発電所を批判して,次のメモも残っている。

「最近の日本の電力援助の分野では、各所で旧ソ連の残した弊害にぶつかるが、このベトナムでも200万KWのホアビニ発電所(現在100万KW)がある。この発電所は巨大な額の先行投資が行われたが、この経済的問題点がどのように解決されつつあるのか良く分からない。ベトナム政府は現在の旧ソ連圏に対して巨大な負債を背負っておるものと考えられ、木材等の現物で償還したとしてもとても早期に完済出来る額ではない。そうとすれば、旧ソ連がこの負債を全部肩代わりして被害を被っていることとなり、このような非効率な投資を世界の各所で実施してきた旧ソ連の経済的崩壊は当然の帰結ということとなる。政治的には大きな意味があったとしても、そこには必ず永続性のある援助が考えられなければならなかった筈だ。」

このようなベトナムの情勢を踏まえて,92年2月,JICAの鉱工業プロ形ミッションが,当時の古市鉱工業計画課長(現海外電力調査会国際協力センター次長)に率いられて,2月26日,小雨煙るハノイの空港に降り立っている。私も参加したが,当時の通産省技協の河本班長と一緒になって,北に電源を集中したいとするベトナム側と激論を戦わせている。ソンラの大水力やファライの石炭火力増設が主題で,これらは,現在工事中の南北連携送電線で南に運ぶのだ,と言う先方に対して,南の電源は南に持ってくるべきだ,と主張して譲らなかった。結果的には,南のフーミ火力やハムトワン・ダミの水力が,OECF借款の対象となったわけであるが,ソンラの大水力については,その水没人口の大きさも合わせ考えて,日本の受け入れるところとならなかった。


3.ヤリフォール水力プロジェクト

今回ベトナムニュースで報じられたヤリ水力は,中央高原に位置して,メコン左岸側の大支流セサンの上流に当たる。私は,メコン委員会在勤中に,メコン流域の全水力地点を自分の判断基準で洗い直した経験があるが,このヤリフォールは,流域内では,ラオスのナムテン2プロジェクトに続く第2の経済性を有していると考えている。この地点については,日本工営が独自で実施してベトナム側に提供したFS調査報告書が,制裁解除以前に既に存在していた。日本工営もベトナムも,制裁解除後は,当然日本の最初の電力協力案件となることを期待していたものである。制裁解除直前の91年の秋に当時の中山外務大臣がベトナムを訪問したとき,ベトナム側は,このプロジェクトについての説明をして,工事のための重機類に相当する支援を要求したと聞いている。しかし,これに対して中山外務大臣の調査団は特に事前の準備がなく,返答をしなかった,このため,ベトナム側はこれを日本側の拒否と受け取って,ウクライナへの支援に切り替えたものである,との説明を,後日,ベトナム側から聞いた。

もっとも,日本の外務省の資料の中には,このヤリフォール地点は瀧になっていて,将来の観光資源となる可能性があり,環境上の配慮から,協力受け入れの態勢とはなっていなかったとの情報もある(このような情報を誰が入れたのか,今になってみれば不思議な経緯だ)。いずれにしても,先の見通しのないウクライナとの協力で,実施に踏み切ったベトナム側であるが,随分紆余曲折を経たようである。今回のベトナムニュースでは93年11月着工,と報じられているが,既に92年時点で大規模な準備工事が始まっていたようで,92年3月頃に現地で,当時の水力調査公社の総裁と話したときには,顔をしかめながら,「金が続かない」とこぼしていた時があった。その後,例の南北連携超高圧送電線連携では,この発電所が重要な中継の役割を果たすことが明確となり,ベトナムとしては,総力を挙げてその完成に取り組んだもののようである。しばらく,我々の情報網からは消えていたが,今回の1号機試運転開始のニュースを見て,そうか,遂にやったか,と改めてベトナム人の粘り強さに舌を巻いた次第である。


4.ベトナム人はネバーギブアップ

ベトナムは世界でアメリカを敵に回して勝利を得た,唯一の国である,と言われる。メコン委員会在勤中の1991年1月,湾岸戦争が勃発した。これは,当時やはり大変な事件で,殆ど全員が会議室のテレビに集まった。私の横で,ベトナム出身のエンジニアーが,薄笑いを浮かべながら画面に見入っている情景は,私には非常に刺激的であった。その顔は,「またやっている,我々は爆撃に耐えたよ」と言っているようであった。事実彼らは,ベトナム戦争の時にハノイで,米国の北爆を経験しているわけで,ある人は,風呂をあがった途端(ベトナム人って風呂はいるのかな),爆弾の破片が飛んできてバスタブに飛び込み,一瞬にして風呂の中のお湯が蒸発してしまった,と話していた。

ホーチミンに行くと,ものをねだるストリートチルドレンが沢山いる。殆どの東南アジアで,数年前までよく見かけた風景であるが,このベトナムのチルドレンは,東南アジアのそれとは違う。船着き場で待っているときにこのチルドレンが寄って来たので,人間は働かないとお金が取れないんだよ,諭して,肩もみをさせてお金を上げたことがあった。ホーチミンでは,いやだ,と追っ払っても絶対に逃げて行かない,ジャカルタやバンコクとは違うのである。最後まで後ろから着いてきて,やっとホテルの入り口でガードマンに追っ払われて追跡を諦めるのである。

メコン委員会の中でも,よくベトナム人と議論になるが,ベトナムのエンジニアーは,容易には議論を諦めない。会議室で,今日は議論に勝ったかな,と思いながら書類を畳んで会議室から出ようとすると,「アダチ,こういうこともあるよ」と,今までの議論をどんでんがえすようなきつい一発を見舞って,悠々と引き揚げて行く。見てる人はアダチが負けた,と思うわけである。我々の水力エンジニアーをまとめていたのがファン女史であるが,ある時,これも議論になって,どうしても決着が付かず,「あなた方,ベトナムのエンジニアーは,ネバーギブアップだ,ホーチミンのストリートチルドレンと全く同じだ」と毒づいたことがあった。しかし,素晴らしい民族である,これが今後の経済発展でどのような方向に向くか,興味深いところである。


5.ソンラ水力と50万ボルト送電線の完成

あれは92年の2月であったであろうか,外は寒く,相変わらず小雨が降っていて,ハノイの湖の上に立っているタンロイホテルの寒々としたレストランに降りて行くと,日本の小柄の紳士が一人で食事をしている。「いいですか」と言って一緒に座ってお互いに自己紹介すると,それは日本工営の塚原さんだった。彼は一人でベトナム電力のアドバイザーとして乗り込み,世界の批判を浴びる50万ボルト送電線の技術アドバイザーをしておられたのだ。日本工営が協力しているとの話を聞いてはいたが,その人を前にして,思わず頭の下がる思いであった。日本人は殆どまだハノイにはおらず,外貨も殆どベトナムに協力していない頃で,一体誰からお金を貰ってここにいるのですか,と失礼な質問をしたら,「ちゃんと給料は払ってくれますよ,鉄塔を建てたり電線を張ったりというようなものはすべて内貨で賄い,どうしても外から入れなくてはならないものは,貴重な外貨を払って,きちんとやってますよ」という話,改めてベトナム人のプライドと頑張りを見たような思いであった。

塚原さんの話は更に続いて,「先進国の高級なエンジニアーの考え方は,ここでは通用しない,彼らは確実に50万ボルトを完成させますよ,そして北の電気を南に送りますよ。ロスが大きいたって,それがどうなんですか,それよりもっと大きなロスを出しながら電気を供給しているのだし,1回線では駄目,と言うのは先進国の供給信頼度をもとに言っている言葉で,台風で停電すれば直るまで待てばよいのだから。日本では30億ドルぐらいかかるプロジェクトですが,ここでは戦争がなくなって失業した兵隊さんを動員して3億ドルぐらいで完成させるのではないですか。」。事実ベトナムはそれから3年後の94年4月にこの送電線を完成させ,何とか40万KWを,電力不足に悩む南へ電気を送っているのである。

この前,6年ぶりにベトナムを訪れて,初めて北のホアビン発電所を見てきた。たまたま調査団に塚原さんも参加しておられて,50万ボルトの送電線の起点となるホアビンの狭い変電所に立って,懐かしそうに眼を細めて鉄塔を見上げる塚原さんの横顔を,「ああこの人が・・・」と言う思いで眺め続けたものである。

このホアビンの上流に,ベトナムはソンラの水力計画地点を持っており,私が参加したミッションでも,何度も何度も日本の協力を要求したものである。12万人の水没で300万KWと言うアジア最大の規模を持つものだが,少数民族の移住が必要となって,日本としてはどうしても同意できなかったものである。ベトナム側は,どうしても北に発電所を集中して南に送り,経済的に南をコントロールしようと言う意図も見え隠れする。「ソンラをやってくれないならば,もう帰ってくれ」とまで言われたこともあった。ベトナムにとっては将来の経済発展を支える重要な電源と考えている。最近では,遂にロシアの支援を受けることに決定したとの報道もあるので,またまたベトナムはやり遂げるのであろうか,しかし,余りにも大きな建設費である,ヤリのようには行かないだろう。日本も真剣に考えてあげた時機もあった。電源開発の小山さんが,規模を小さくしてと提案して,実現を図ったが,ベトナムは「いやだ,300万KWだ,洪水防御にもなる」と,この提案を蹴っている。


6.南北融和がベトナムのキーワード

ベトナムへの思いを語ると尽きないが,結論を急ごう。1974年に,北が南を制圧してベトナム全土統一したとき,北の政府が最初に起こしたプロジェクトは,ホーチミンからハノイに至る鉄道の復旧であった。北と南は,縦断した人であればすぐに気づく,北はいつも寒く曇っていて小雨が降っている,この寒い中で人々は水田に入って雑草取りをしている,昔の日本と全く同じ風景が見られる。道ばたは編み笠をかぶった人々が自転車に乗って,黙々と走っている。その自転車の荷台には必ず何かものが載っていて,この物の移動を総計すると,相当のGDPになるのではないか,と思ったこともある。それに比べると,南のホーチミンは,常に明るく暑くて,バンコクを思い出す。南の人々は,やはり北に支配されているという意識があるに違いない。ホーチミンの中央政府の出先は,必ず北の人が赴任してくる。しかし,民間のお金はどうしても南に集まってしまって,工業団地の発展の度合いも全く違う。

北には,大水力の包蔵と質は悪いが石炭が出る。この石炭を船で南に運んで発電するよりは,無理しても送電線で運ぶ方がよい,と北の人々は考えている。最近では,南のブンタウ沖に石油が出て,これに伴う随伴ガスや,天然ガスの大きな包蔵があると言われており,とりあえずベトナムは,このまだ得体の知れないガスを,将来の重要なエネルギー源と考えている。それでも,ベトナム政府は,この長細い南北に連なった国土を,何とか経済的にもバランスのとれた国にしたいと考えている。だから,鉄道で結んだり,無理な送電線で結ぶことは,経済的な問題よりも,むしろ政治的,又は精神的なものだ,と考えれば納得がゆくのである。

何度かベトナムを訪れると,なんだか揺れ動いている,と言うことが感じ取れる。前に行ったときには,ホーチミンが大変自由な雰囲気の中で喧噪を極めていたような気がするのに,3ヶ月も経たないで行くと,なんだか雰囲気が違って重ぐるしい雰囲気が漂う。北の政府は,試行錯誤を繰り返しているのだろう。最近では,アジア危機の影響もあって,経済がやや落ち込み,今開かれている国会の記事を見ても,責任を追及して,壮絶な人事が行われることが報道されている。でも,彼らは確実にお金持ちになっていっていると思うし,テクノクラートに属する人々は変わってきている。1991年頃初めてベトナムを訪ねた頃,当時の電力公社総裁と食事をしながら,「何故ベトナムの男性は汚くて見苦しく,女性は綺麗なのですか」と尋ねたら,「それはアダチさんが男だからでしょう」,と言う答えが返ってきたが,あのころのベトナムの男性は,ほほがやせ細ってしわを刻み,まるで今ベトナム戦争から帰ってきたベトコンの兵士,と言う印象であった。この前,3月に6年ぶり久しぶりに尋ねて食事をして,同じ質問をしてやろうとして,先方の顔を見ると,皆まるまると太って顔色もよく,まるで タイのエリートビジネスマン,と言う感じに変わっていて,言いよどんでしまった。

以上

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