私の主張05

ー カンボディアのトライアングル開発構想 ー

(1999/12/04)


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1991年12月1日早朝,ナイジェリアからの帰りでバンコクのホテルで見たニュース(991201W)は,再びカンボディアの発展構想について抱き続けた思いを,強く記憶から呼び戻してくれた。このニュースによると,カナダ籍の電力企業ジュピーターが,プノンペンに15MWの発電所の買電契約を,カンボディアの電力公社EDCと結んだというものである。私がメコン委員会にいた1990年から92年は,丁度カンボディアの和平到来でインドシナ半島が揺れ続いたときで,電力を中心としたカンボディアの開発構想を打ち出して真剣に取り組んだ時代と重なる。それは,首都プノンペンを頂点として,港のコンポンサム(現シハヌークビル)と観光のカンポットを結ぶ線を底辺とする,いびつな三角形を発展の基本に据えようと言うものである。これは,今でも私の心の中で生き続けている。


1.キリロムのダムを見た

日記を手繰ると,それは,1991年の1月15日,乾期の真っ最中で,カンボディアは灼熱地獄の中にあった。私とメコン委員会の水力関連の同僚ノルウエーのライト氏は,50人の兵士に守られて,片道2時間の険しいキリロムの山道を,やっとの思いで登り続けていた。およそ2時間近く上り詰めたときに,そこに高いコンクリート製の塔が視野に入った。1970年代,完成から3ヶ月でポルポトの手によって破壊されたキリロム水力(1万KW)の調圧水槽である。ゴム草履を履いてバズーカ砲を肩に担いだ兵士達も,ここで一斉に休息をとっていた。同じくゴム草履を履いた隊長が,我々を案内してきたウトンセン氏(当時カンボディアの国内でメコン担当の水力エンジニアー,現カンボディア電力公社経理担当副総裁)に伴われて,水筒から水を呷っている私に近づいてきた。

「軍隊もこれより先には行ったことがない,ポルポトの残兵が残っている可能性があるし,ここで引き返したい」と,ウトンセンの通訳で私に告げるのである。私はそのときダムを目指していた。ダムが生き残っているかどうか,発電所の修復にダムの現状がどうなっているか,それが一番問題だったのである。丁度日本政府も,カンボディアの和平復帰で,援助再開の最初のプロジェクトを模索していた時代で,メコン委員会も,和平後の開発構想の確立に躍起となっていた。それを2時間も歩いたところで,ここで引き返すというのである。こんな灼熱地獄の中を必死に登り続けてきたのは,唯一ダムを見ることが目的だったのである。「俺は帰らない,兵隊が帰るというなら帰ってくれ,俺一人でもダムまで行って来る」と言って道の真ん中に胡座をかいて座り込んだ。

困り果てた隊長は,隊員達と長い間話し込んでいたが,帰ってきて,「兵士達の食事代を払ってくれ,100ドルだ,危険だがそれでなんとかしよう」。そのときの私にとっては,1000ドル払ってもダムを見るつもりだったので,「承知した,行こう」と言ってまた歩き始めた。当時,ポルポトも選挙に参加する態勢で話し合いが進められていたときで,ポルポト自体は危険な存在ではなかったが,山賊化したポルポト兵士が襲ってくる可能性がある,と言うのである。政府軍の兵士は,和平の進捗で職を失ったも同然で,危険だ,危険だと思わせることが,即ち自分たちの仕事に繋がるので,山道を歩くときも,私たちの足跡を辿ってくれ,地雷が危ない,と言って脅かすのである。このような山の中で,小さい私の足が地雷を踏みつける確率なんてゼロだ,とぶつくさ言いながら,再び山登りを続けた。

途中,ダムの底から調圧水槽を結んだ鉄管の残った一部の残骸を見ながら,30分ほど歩いてやっとダムの下流面が見えてきた。草に覆われてはいるが,確実にそこにダムが生き残っている,ダムサイトに達すると,満々と青い水を湛えた貯水池も無事である。早く帰ろうとせかす隊長をなだめながら,ダムの上の背丈の高さの草を踏み分けながら,右岸から左岸まで歩いて,この情景をしっかりと脳裏に刻み込んだ。いろいろ考えさせることが多かった,復旧が未だ出来ていないこの発電所の問題点は,今でもその復旧への障害として残っている。「ダムの勾配がきつすぎる,このダムでは日本のダムエンジニアーが納得しないだろう,底のバルブをどうして開けるのか,爆破したらダムを壊す可能性がある」等々である。周りの人は,ダムが生き残っている,と歓声を上げていたが,そのとき私は,一人静かに,日本の無償案件に推薦することを諦めた。


2.惨憺たるプノンペンの発電所,その復興

西側公的機関のエンジニアーで,初めてベトナム撤退後のプノンペンに入ったのは我々ではなかったか。プノンペンの電力は惨憺たるもので,旧ソ連の機械を中心とした5つのディーゼル発電所はスクラップ寸前,カルバニゼーション(人肉食)で,部品がないために,隣の発電機を潰してその部品を抜き取り修理を重ねている,シハヌーク時代に9万KWは生きていたのに,我々が入ったときは僅かに2万KWが何とか動いている状況であった。しかし,このような中でも,エネルギー省のランディ次官や前述のウトンセン達は,復興に向けて,必死に計画を練っていたのが印象的であった。無惨に崩れた日本橋の状況も,脳裏に残っている。

日本政府の出足は速かった。我々がプノンペンに入るより前,1990年の6月,パリでの和平会談の度重なる失敗を受けて,当時タイのアナン首相(タイも政局が激動していて,実業界のアナン氏が緊急の首相に就任していた)の提唱で,タイのパタヤで結果的に最後の和平会談が開かれていた。当時のメコン委員会事務局長ランカスター氏の言葉を借りると,会議はもつれにもつれて,出席者に疲れが出てきた頃,メコン委員会の開発計画書がメンバーに配られた。しばらくメンバーはこの計画書に見入っていたが,誰からともなく,皆でともにインドシナの開発に手を携えようではないか,との提言となり,一挙に会談は妥結に向けて走り出した。シハヌーク殿下が,既に用意していたアンコールワットを形取った国旗の案を取り出して,高々と掲げている写真が,タイの新聞を彩っていたことを思い出す。この会議での,日本代表として出席された在バンコク大使館今川公使(当時,後にカンボディア大使)が,各国に先駆けて,新カンボディア政府(当時4派の連携でSNCと称していた)を承認する旨の発言をされて,日本政府が積極的にその和平復帰に向けて重要な立場を主張したと受け取られて いた。

こうしていよいよカンボディアへの支援が始まるわけであるが,電力最初の調査団は,1991年5月の古市調査団であった。この調査団は,最初から旧ソ連の造った第4発電所を,新しい発電機に置き換える計画でスタートし,プノンペンの緊急事態に対応しようとするものであったが,このような事態にあっても,あくまでも慎重でオーソドックスなアプローチを主張する古市正敏氏(当時JICA鉱工業計画課長,現海外電力調査会国際協力センター次長)は,プノンペン市内電力マスタープランを投入しなければ駄目,との立場であった。しかし,その根回しには眼を見張るものがあり,外務省開発協力課佐藤班長(一時UNDP東京事務所長),通産省技術協力課野中班長(一時JETROバンコク)達と図って無償資金協力担当箇所にアプローチし,既に25億円相当,マスタープラン後,時を置くことなく無償資金協力に突入するとの確約をとって,現地調査に臨んだわけで,その手際は鮮やかであった。

この古市調査団の調査を受けて,91年9月にはJICAの資源調査課の,マスタープラン作成に向けての事前調査団が現地に入っている。この当時は,団長は当時の藤田資源調査課長(現JICA国際協力専門員)で,プノンペンの空港から市内に向かう道路は,シハヌークビルの港から陸揚げされたUNTAC(国連平和活動部隊)の白いジープが何kmも連なっていた。我々に対応したカンボディア政府のランディ次官は,「フランスやADB,その他の各国は既に何十億円相当のプレッジをしている」と日本の対応の遅さを痛烈に批判しながら,明日にも発電機が必要なのだ,と繰り返した。「あのUNTACの白いジープを直列に繋げば4000KWは出るなあ」と冗談を言い合っていたが,これからの日本の対応のスピードは,カンボディアにとっては想像を絶するもので,出来上がってみれば,日本の発電機だけしか動いていなくて,改めてカンボディア政府は,日本の無償協力のすごさを知ったわけである。(まあ,値段も極めて高かったが)


3.トライアングル開発構想

これは,メコン委員会当時に私達が提唱し,帰国後もいろいろな機会に関係箇所にアピールしたものであるが,要は,「カンボディアの今後の経済はプノンペンを中心に発展する,しかし,プノンペンでの電源開発には限界がある,それは燃料輸送をメコン川に頼っているためで,10万KWが最大であろう,またプノンペンのディーゼルは電気が高くて経済発展を阻害する,早晩,唯一の海港であるシハヌークビルに経済性の良い中規模重油火力を置かざるを得ない,しかしこれをプノンペンに運ばなければならないので,長距離高圧の送電線が必要となる,そのとき,シハヌークビルの火力を運ぶだけでは経済性に乗らないので,途中の南西部山岳地帯に分布する水力を拾ってくる,電源は水火の絶妙の構成になるだろう,これに伴って,港のシハヌークビル,観光のカンポット,首都プノンペンを結ぶ長辺三角形が出来るので,国道3号,4号も改修して高速化し,カンボディア発展の軸とする」と言うもので,絵に描いてみるとこのようになる,餅ではない

カンポットは,元々大きな観光地で,すぐ南のケップ海岸にはホテルが建ち並んでいた。私たちが入った1991年1月には,カンポットの安宿には電気がなく,懐中電灯を用意して一晩を過ごした。ケップ海岸には嘗ての栄華を偲ぶホテルの残骸が,お化け屋敷のように残っていた。案内してくれた村長さんは,道路の両側に100坪ずつの土地を縄で区画して,一区画500万円だ,どうだ買わないか,と本気で頼んできていた。彼らは,過去の栄華を知っているために,和平回復に大きな期待をかけていたわけである。その後,ポルポトが離反して,この付近は治安上危ない地域になってしまったわけであるが。カンポットのすぐ北には,標高1000m以上のボコール高原があって,その南は切り立った崖になっている。この高原の上には小さい自然湖があって,昔シハヌーク時代にはカジノがあったりした観光の拠点であった。前出のウトンセン氏は,子供の頃,平和な時代にお父さんに連れられて遊びに来たと言っていた。そのお父さんもポルポトの犠牲となって今はない。彼自身も,高校生である身分を隠してやっと生き延びたという。

カンポットには,北からカムチャイ川が流れて,その中流部に昔から10万KW程度のカムチャイ水力の候補地点がある。流域も小さく水力として決して魅力的な地点とは言い難いが,場所柄,キリロムとともに必要となれば最初に開発されるべき地点である。トライアングル構想では,シハヌークビル火力とともに重要な核をなすはずである。私も先の91年1月,このダムサイトの傍まで足を踏み入れている。これは旧ソ連が現地調査を始めたが,途中で本国の事情から捨てて帰っている。1mになんなんとする報告書が,プノンペンの国家メコン委員会の倉庫に眠っている。シハヌーク国王の回想録の中で面白い話がある。彼によると,妃殿下は絶世の美人であったと。国際会議ではスカルノ大統領などから随分モーションをかけられたとか。ソ連を訪問した国王に,明日の会議には妃殿下を伴うように,との連絡が入って,一緒に出席すると,フルシチョフが早速妃殿下と話し込み始めた。国王はモロトフ外相とカムチャイ水力の技術協力に関する協議を始めた。話がまとまってフルシチョフに最後の決を採ろうとすると,まだ妃殿下と話し込んでいたフルシチョフは,手を振って,「いいからどんどん やれ」と言うことで,この技術協力が決まったとか。回想録では最後に「ダムが出来上がってその上で,このカムチャイの渓谷を覆う鬱蒼たる森林を眺めてみたい」と結ばれている。

その後,このカムチャイについては,日本の協力を実現させるべく,多くの人々が動いた。地雷を懸念する現地大使館によってけ飛ばされているが,日本工営の小泉さん(現工営総研)が,度々私の前に座り込んで,二人でどう動かそうかと話し合った時機もあった。その後,カナダのハイドロケベックがIPPで開発すべく調査を行い,プロポーサルを電力公社に提出したが,買電単価で折り合わず,ケベック社は撤退した,とウトンセンが話していた。結局,地雷の問題は,全体を眺めていてもどうにもならないので,プロジェクト毎に区域を設定して,重点的に撤去を行うより,今後は方法がないだろう。


4.プレクトノットなどの農業開発

トライアングル構想で忘れてならないのはプレクトノットのダム計画である。これは,1970年代に始められた農業主導のダム計画で,プノンペンのすぐ西に位置して,最初は6万ヘクタールの潅漑と18MWの水力発電,それに毎年襲うプノンペン郊外の洪水防御が目的で,日本などの支援で工事に着工した。ところが1974年頃にポルポトが攻め込んできて撤退命令が出た。ダムへの思い入れでこの命令に従わず,最後まで現場に踏みとどまったメンバーの中に前田建設の神崎紘爾氏(現前田建設バンコク事務所)がいた。神崎さんは,心からカンボディアを愛した人で,今でも自費でカンボディアで学校を寄付して暖かく見守っているような心の優しい人だが,一旦ダムにかける情熱は鬼神もおそれるほどで,今でもこのプレクトノットの工事回復に情熱を燃やしている。1996年にプノンペンに入ったときに神崎さんのマネージするコンクリート製品工場を見に行ったが,コンピューターを持ち込んで,カンボディア人スタッフを多く抱えて,何とか彼らを一人前のエンジニアーにするのだ,と入れ込んでいた。我々はこの工場を「神崎城」と呼んでいた。

私は,このプレクトノットを余りよく言わないので,神崎さんに申し訳ないと思っているのだが,潅漑対象6万ヘクタールでスタートした計画も,最近の情勢では3万ヘクタールを切っており,しかも予定湛水池内も環境調査が思うように行かない現状である。一つは,米の値段が1974年を頂点にして極端に下がってきており,今では半分になったと言っても過言ではない。メコン委員会当時,「米の値段が半分になっているから,70年代当時のカンボディア国内のプロジェクトは見直されなければならない」と大声で主張していたら,当時同僚としてメコン委員会に農林省から派遣されていた国安専門家(現在構造改善局で枢要の地位におられると思う)が近くに寄ってきて小さい声で,「足立さん,半分は大げさですよ」と笑っておられたが,事実私は,カンボディアの過去の計画は見直す必要あり,との意見である。アジアで農業だけで本格的なダムを造ることは理論上不可能で,発電主導のダムに農業を載せる,と言うのが,今後の可能性のある方法だと思う。疑う人は計算してみて下さい。

しかし,カンボディア政府のプレクトノットにかける情熱は激しい。内戦で一旦中断したダムを復活させる,それは即ち平和の実質的な回復を意味するもので,彼らにとっては平和のシンボルそのものなのである。そのほか,このプレクトノットの下流,プノンペンの郊外は毎年洪水に悩まされており,少し経ってここを尋ねると,地形が全く変わってしまっているほど,洪水被害が激しい。これを救うものは,確かにプレクトノットのダム建設しかないのであろう。この洪水の中で長年戦ってこられた人々の中に川合さんがおられる(当時メコン委員会派遣JICA専門家,一時カンボディア政府派遣専門家)。この方もカンボディアに一生を捧げた人で,この方がふと誰にともなく漏らされた一言が,今でも私の胸に残っている,曰く,「あの潅漑水路を何とか修復してやりたいのだが,ポルポトに殺されながらこれを造った人々のことを思えば,これを捨ててこっちというわけには行かないだろう」。


5.トライアングル構想の実現に向けて

もう一度,地図を見ていただきたい。プノンペンが経済発展の核である,と言う言葉には,異論もあろう。全国的なバランスのとれた発展,例えば人口の多い東のコンポンチャム,アンコールワットを持つ観光の拠点シアムリアップ,西の農業の拠点バッタンバン,沢山拠点があるはずだ,更には地方の貧困を救わなければならない。勿論,それらに集中して協力に手を貸す人もいなくてはならないが,それらがカンボディアの経済を底上げする拠点とはなり得ない。地方電化はあくまで国際協力の飾りであって本質ではない。経済の拠点が電気を大量に必要とするのであって,それは他の東南アジア諸国を見れば歴然としている。国全体が発展する前提は経済の拠点であって,それはプノンペンにならざるを得ないであろう。では経済の拠点の,国の電力需要の殆ど全部を必要とするプノンペンの電力を賄うには,どうすればよいのか。

プノンペンに直接電源を置くことは困難である。港が必要だ,誰が考えてもシハヌークビルの,当面は中規模重油火力(石炭でも良いかも知れないが,天然ガスやLNGのインフラ構築には,当面手が回らないだろう)と言うことになるが,これだけに注目しても実現は困難である。200kmほども離れた地点の電源で,プノンペンの増大する需要に対処するためには,膨大な基幹設備の構築が必要で,電力セクターだけの資金では,当面賄いきれない。火力水力を巻き込んだ総合的な電源計画,それに道路,鉄道,通信,観光,農業を巻き込んだ一大開発青写真を描かなければ,誰も資金を貸してくれないだろう。

以上

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