ミャンマー・タマンティ水力地点


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タマンティダムサイト位置図


タマンティーの話

足立さんにタマンティーについて書いてみたらと勧められた。以前、電力土木(No.260)に「ダムサイトと夢のあと」と題してミヤンマーのタマンティー水力地点を紹介したことがある。最近、足立HPでもミヤンマーのニュースが多い。それだけ一般にも関心が高まりつつある国と思われるが、人権問題で先進国より経済制裁を受け公式の援助は止まっている。
したがって、東南アジアでも経済発展が遅れている国である。メコン河周辺の国や最近オープンになってきたヴェトナムに比較して、ミャンマーに関する情報は少ない。ミヤンマーは東南アジアでも有数の親日的な国で、包蔵水力も非常に多い。以前、足立氏と一緒にミヤンマーで仕事をしたとき、包蔵水力を一億kWと試算した。今後日本の積極的な援助が期待される国である。

タマンティー水力地点が興味を引くのは、大型水力地点であり、灌漑、内陸水運、僻地開発など、総合開発として典型的なダム地点であるためである。事業規模としては中国の三峡ダムには遠く及ばないが、ミヤンマーの経済規模から見れば中国の三峡に匹敵するプロジェクトの一つである。

水力地点とは別に、タマンティー(イラワジ河支流チンドウイン河右岸の村名)は、太平洋戦争当時、日本陸軍が敗退した有名なインパール作戦で、日本軍の最右翼の部隊が渡河した地点である。ミヤンマーでは日本軍の作戦行動で渡河した周辺にダム候補地点が多い。大きな河では、渡河し易い交通の要路は地形的にダムサイトとしても適地であると云える。扇状地の起点の多くは、合口としてダムができ、灌漑等の水利用の要になっており、昔から交通の要所となっている。

もう一つ、現在の東南アジアの国際情勢と、太平洋戦争当時のそれと何となく似たところがあるように思われる。このような結び付けは多少無理とも思われるが、しかし、戦争当時、インパール作戦では三万人、ビルマ全体の戦死者は十五万人とも云われ、その遺骨のほとんどはそのまま放置され今日に至っている。多少の無理筋と思いこみは許していただいて、当時の犠牲者の鎮魂を祈りながら、タマンティーを紹介したい。


国際情勢と経済制裁

IMFが民主化すれば経済援助するというのに対し、ミヤンマーの現軍事政権は、「われわれは物乞いではない。援助が得られないなら経済発展は遅れても構わない」と公然と云っている。独立当時、ミヤンマーは東南アジアでも進んでいた国であった。1962年、クーデターで軍事政権が成立し「ビルマ式社会主義」を唱え、窓口を国連だけにして鎖国し今日に至っている。欧米自由主義、ソ連共産主義どちらの陣営にも属さず、かたくなに独自の路を進もうとしてきた。ミヤンマーは百以上ともいわれる部族に分かれ民族問題は複雑である。それだけにコソボや東チモールのようになるのを忌避しているのかも知れない。

先進国の途上国に対する経済援助は、人道主義の名の下に行われている。したがって、民主的ではないと見えるような国に対しては,いわゆるODAは与えられていない。このあたりは政治的な問題でなかなか難しい。先進国グループはほとんど自由主義陣営に属している。経済は市場経済を善とし、基本的人権が認められることが前提である。自由な人権のないところは、公式的には経済援助をしないというのが経済制裁である。

在日ミヤンマー大使館のHP
http://www.myanmar-shafu.com
を見ると、ミヤンマーのことがよく紹介されている。それによると海外からミヤンマーへ投資額が多いのは、イギリス、シンガポール、タイ、アメリカ、フランス、マレーシア、オランダ、インドネシアの順で、日本は9番目である。これは民間投資だと思われるが、イギリス、アメリカは公式の経済制裁との関係はどうなっているのか一見不思議な気がする。

複雑な政治問題はともかくとして、グローバル化が避けられない今日、地球規模での環境問題や世界経済の安定に寄与できる問題に対しては、先進国は大いに援助の手をさしのべてもよいのではないかと思われる。日本のODAは要請主義と自立支援を標榜し、一つの考え方であるが、一面、どのような世界観があるのか見えないところがある。

最近、ミヤンマーも基本的には民主化路線を進めつつあるが、一部民族問題も絡まって、政治情勢は複雑でいまのところ先進国から公の経済援助は得られない。NLDのスーチー女史は軍事政権への援助はミヤンマー民主化への妨害であると主張している。それならばと現政権は中国との関係を強化し、中国雲南省との国境地帯で経済交流を深めている(読売新聞、19999.10.5付け、「活況ミャンマー国境」、経済格差を背景に影響力を強め緊密化)。

ミヤンマーは、1962年の軍事政権成立以来国連を通じて僅かに外国と接触していたが、ある時期、ソ連や中国の支援を受け、小規模の水力機器や調査では今でも中国との関係が続いているようである。中国製の機器類は非常に安く、水力の次期開発地点であるパンランの機器類は中国が援助をコミットしていると報じられている(足立HP)。

中国雲南省は、長江、メコン河、怒江の上流域にあり、水力を始め豊富な資源を有するが、内陸部であり海岸地域に比較し経済的にはヘッドが低い。海への出口としては、昔からビルマ(現ミヤンマー)のラングーン(現ヤンゴン)へ繋がっていた。このラングーンからマンダレーを経て、中国雲南省の昆明、貴陽、重慶と達するのが太平洋戦争で有名な援蒋ルートである。米国は重慶の蒋介石政権を助けるために、ビルマのラングーンから軍事物資を送っていた。現在でも中国の雲南省への石油輸入はこのルートが近いと云われている。雲南省はこのルートを通して、経済の開放を進めているミヤンマーに接近している。

半世紀前の情勢

1941年12月、日本は太平洋戦争を始め、緒戦でビルマを制圧し、援蒋ルートを遮断した。このためアメリカは、インドのアッサム州レドより昆明まで(約1,000km)空輸による物資輸送に切り替えた。当時アメリカは中国の蒋介石政権に陸・空の軍事顧問団を派遣していた。陸軍のスチルウェル中将は、レドからチンドウイン河上流のフーコン渓谷、ミチナ、バーモを経て、昆明に至る道路の建設を主張、完成させている。空軍顧問のシェンノートは、中国内陸の飛行場から日本を直接爆撃する案を主張していた。昭和18年4月、アメリカのドウリットル爆撃隊が太平洋上の空母から東京を空襲、中国の内陸飛行場に着陸帰還した。このため日本軍はかなり中国内陸部まで飛行場の制圧を目的とした掃討作戦を行っている。

スチルウェルが建設したルートはレド公路(別名スチルウェル道路)と呼ばれているが、彼は空輸による戦略物資の輸送は限界があるうえ、中国内陸部からの日本本土爆撃は、日本軍の内陸侵攻をもたらし、重慶政権が危うくなると反対していた。アメリカは何とか蒋介石政権を援助し、日本の勢力を中国に釘付けにしたかった。が、イギリスにとっては、インドの確保と、シンガポール反攻の足がかりとしてのビルマであった。また、英国のチャーチル首相は戦後のアジアの勢力バランスを考えて、中国が強力になる援助には熱心でなかった。

スチルウェルは蒋介石の補佐として、アメリカ装備の中国軍数個師団の指揮権を任されていたが、ビルマ国内の対日本軍との戦いには蒋介石は熱心ではなかった。蒋介石は戦後の共産党との内戦に備えて近代装備の兵力を温存したかったといわれている。このような情勢の中、日本軍は、再び援蒋ルート遮断とインド侵攻、英国を去勢する政治的目的からインパール作戦を実行した。(続)

このあと見出し
・タマンティー地点概要
・日本軍敗走ルートとダムサイト
・日本のできること等


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