エネルギー論壇

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紹介 杉木清氏

私,足立の関西電力の先輩,杉木清氏が,見るに見かねて,このホームページを手伝っていただけることになりました。私のニュース更新への忙しさもさることながら,後輩の洞察力の無さを憂いての一念発起と,感謝しています。私のページの,評論部分の不足を補っていただけるものと期待しています。どうかご期待下さい。先輩は,年のせいもあって,世の中の悲憤慷慨が吹き出さないかと,若干心配しています。ODA批判が吹き出しても,私,足立には,一切責任がないことを,お断りしておきます。

杉木清氏は,昭和30年阪大構築院卒で,黒四の建設に参加した後,黒部最下流の音沢水力発電所建設所長を最後に,関電からニュージェックに移られて,常務取締役を経て,現在はニュージェック顧問の地位にあります。インドネシアのチタルム水力や,当時ビルマの世界銀行による「電力マスタープラン」の策定に,特に力を注がれたことが,私の印象に残っています。日本工営さんにはかなわないとしても,水力の国際協力の草分けの一人と言っても良いでしょう。「どうや足立君,俺の英語はうまいやろう」と,よくいびられました。

私の水力エンジアー生活40年の中でも,そのポイントごとに私の前に現れて,悪いことも含めて,いろいろ教えていただいた大先輩です。その時代の流れを先読みするセンスは,今も私は尊敬し,時々,膝を屈して教えを請うています。昭和30年代の高度成長期のはじめには,「足立君,スケールメリットの時代だよ,マクナマラ(当時国防長官)の予算編成理論を学ぼう」と,実際にコンピューターのプログラムを組まされたりして,勉強したものです。昭和40年代に至ると,まだ周囲では誰も言っていない時代に,「足立君,これからは経済性だけではないと思うよ,他に評価要素を組み込まなければ時代に取り残されるぞ,スケールメリットの時代は過ぎたよ」といち早く変わり身の速さを,抵抗する私に押しつけたものです。環境がうるさくなってきたのはその直後です。昭和51年頃,国内で揚水発電にのめり込んでいる私を,「足立君,世界の時代だよ,関電を出てこい,一緒にビルマに行こう」と言って,とうとう国際協力の場に私を引きずるだし,関電から出入り差し止めになったのも氏です。私が,関電を辞めてJICA専門員になるときも,真っ先に,「中原に鹿を追え」と送り出し てくれました。今後連載することになる氏の論壇のセンスを,どうかご期待下さい。

私の息子が松下電器に入って,1年遅れて杉木さんの息子さんが,同じく松下に入ってきた。今度は,先輩後輩が逆なので,息子に仕返しも含めて思いっきりいじめてやれ,と指令を出したら,帰ってきた私の息子,「あかんわ,相手は人事やった」。


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